ヒエラルキー上位へ

先輩、上長、部長、社長、ヒエラルキー上位へ

 

上下関係で受けた無意味な抑圧、出る杭は打たれることが当たり前。

打たれた時の、理由がわからない自己否定感、他人から嫌われる感覚、無視される悪口を言われるなど自己肯定感を蝕む感覚、罪悪感、相手の心を慮ることが出来なかった反省、それ自体の下らなさへの嫌悪感、悩むこと自体への悩み。

 

これらが嫌だ。ヒエラルキー上位への不信感、関わりたくない、穏便に、記憶に残らず、視界にも入らず、存在を消して、何事もなく、深く関わらない。

自分を迎えてくれる、否定しない、陰で笑わない、無意味に嫌わず対等に見てくれるという信頼感のある人にだけ懐く。高校担任、研究室の教授とか。

でも、社会人はそうもいかないらしい。上の人と連携して、対話を重ねて、実行して、役に立つ。関わらないといけない。いけないんだ。自分で何ともできねぇ。話すことがない、虚ろな声で笑うばかりだ。ひどく疲れる。何かしなきゃ、気を使わなきゃ、変なことを言ってはいけない、自己主張をしてはいけない、嫌われるきっかけを作ってどうする、黙っておけ、疲れる、関わりたくない。

 

でも、社会人はそれじゃいけない。

話した後はいつも自分を責める。私が悪い、彼らは何も悪くない、私の問題だ、私が勇気を持って対応しないと。いつも問題は自分の内にある。いつも自分を責める。責める。責め続けて何年。自分の心の弱さが問題だ、自分が悪い。更に自己肯定感を削る。自身を食っていく。

疲れた。なんで私ばかり責められなければならない、彼らも本当に悪くは無いのか、助け舟も出せないのか、私ならば必ず出している、私ならば話しかけて話を引き出して味方をする、彼らも昔の先輩と同じだ、自分を歓待される側だと信じて疑わない、なぜ慣れている目上の人が不慣れな目下の人を歓待しない、なぜお前は期待の目で私を見る、出来て当たり前などふざけるな。

時には他人のせいにしたって良いじゃないか。どうせ最後は自分の問題と内にこもるのだ、完全に他人のせいには出来ぬ性分なのだ、なぜ私は自分の問題とうちに籠るのか、なんでも自分の問題にしちまうのを美徳と思っているのか。他人のせいにする自分の醜さに耐えられないのだ、それを醜いとする価値観で生きているのだ、この価値観は変えてはいけないと思っているのだ。

 

この価値観を大事にしているから、私は苦しく忸怩たる思いをするのだ。こんな価値観で、なぜ自分を責めて泣かねばならないのか。

 

ほらな、結局自分のせいになるんだ。逃げられないんだ。馬鹿野郎だ。